上田勇一公式サイト

Thought/想い

評論「線の先にあるもの」
2022年
建築家/KIA代表 市瀬克己

およそ、人として生きるならば、何かを残さずにはおれぬ。

私は、そう言い続けて人間としての本質に向き合い続ける上田勇一という男と十年ぶりに再会した。 彼の表現手段である“銀筆”という古典画法は、銀の酸化によって朧げに線が現れるのを待つという、気の遠くなる様な現象の先にある絵画である。

上田勇一は言う。 「この線に魂を刻み付けているのだ」

そう言い続けて二十年以上が経った。

彼は、この色彩を伴わない無数の線の集積にこそ、自らの世界があると信じて走り続けている。 だが、今回出典された最近の作品には新しい境地を見る事も出来る。

彼の線は本質的に「やわらかいもの」を求めてやまない。

それは、おそらく彼自身の本質を表現しようとする衝動であるだろうと推察する。 元々彼のいた “建築” の世界から発した“線”は、製図法の目的である建築と同様に堅牢で、時に他を寄せ付けぬ厳しさがある。 そのようなものと彼の衝動とは相容れないのであろう。 若い頃の探求する心、その喉の渇きにも似た渇望は、日本古来の紙の世界に入ることで一つの道を見出したのではないか。 私はそんな風に理解した。

物質の特性を現すには、光を考えなくてはならない。 光の扱いは建築の大きなテーマでもあるが、絵画における光は精神の現われでもあり、彼は紙に描き光を削り出すことで、自らの心の奥底を照らし、曝け出そうともがいているのかもしれないなどと考えたのだ。

彼の絵画に対峙するとき、人間としての上田勇一の本質と対峙すると思って絵の前に立つと、また奥深いものがあるに違いないと確信するのである。

上田勇一

想い

「美しさ」と「静謐さ」を合わせ持つ、世界を描くことができる技法は、古典絵画技法の中に存在していた。

忍耐と修練が必要なその技法は、最も遠回りでいて最も近道であった。
忍耐強く繰り返し教えていただいた高橋勉先生は故人となられたが、私の手に宿り、永遠になることができた。

美を創り出すことによって、答えを出すしかない。
この10年間は、私は苦しみの中にあり、画があまり描けなかった。
いろいろ理由をつけて、道化を演じ、マヌケな自分でいたかった。

1994年、私が二十歳で先生は40歳だった。
もうすでに、私は40歳を越えてしまい、その頃の先生の年齢を超えたことに愕然とした。
私には時間がないのだ。

光が差し込むのに10年かかった。
結局の所、私は、高橋先生という幸福な出会いにより、今日も芸術の道にいる。

技法説明/
シルバーポイント

シルバーポイント(銀筆、銀尖筆)は、中世末の12世紀から17世紀半頃まで素描の技法として一般的に知られていた。
きわめて耐久性を富み、500年以上の長きに渡って描かれた当初の輝きを保障してくれる。

ルネサンス期には、レオナルド、ラファエロ、デューラーなどが、すぐれた作品を残している。
銀筆は描いた当初は、
鉛筆のような青黒い線だが、時間の経過とともに銀が酸化し、その線の色はややこげ茶色に変色するという特色を持っている。

自然酸化ならば、半年から一年で徐々にヴェルダッチオ風の色調(茶褐色)になる。
例えるならば、明治時代の銀板写真のように美しいセピア色になる。
また、銀筆だけで作品を仕上げるには、光の根源は「地の明るさに求める」ことが必須である。
よって、写真で言うならば、ネガ・ポジ反対の発想で描いていく。

技術は、古典のメソッドで徹底した職人技で描きながら、モチーフは今生きている21世紀を描くことを心がけている。

シルバーポイント

評論「上田勇一の仕事」
2012年
アスクエア神田ギャラリー 伊藤厚美

銀筆/Silver Pointとは、直径2ミリの銀の棒をやすりで磨き、鋭利に尖らせたもので描く。
美しく磨かれた石膏地に銀で描かれた線は、時間の経過と共に酸化してセピアトーンに変化するという特徴を持つ。
ヨーロッパ中世に起源を持つこの技法に作家は魅せられ、追及している。

この仕事は、集中力と忍耐を要求する。
現代のインスタントなスピードの時代にあり、作家は最も非現代的と思われる仕事に没頭する。
その制作の歩みは遅々としている。

作家にとって表現とは何であろうか。
モチーフとして用意された物に深い意味はあるのだろうか。
空想上の鳥、水面の映像、梨。
作家はモノと空間のはざまを彷徨している。
きわめて細く硬質な銀筆によって描かれた線は、はざまを刻んでいく。

没頭する画家にとってはその行為の時間のみが生きることを担保しているのかもしれない。
永遠の時間に続く道。
それを想い描く作家は、決して急がない。
おそらく、緻密に描ききることによってしか得られない充実を知っているのだろう。

「上田勇一展」によせて       
2010年
首都大学東京講師(当時)
ドイツ文学研究者 
豊倉尚

上田さんの絵と対面していると、青とオレンジ(橙色)の暖かい色調に引き寄せられました。
青は蒼空の、橙は夕焼けの色。
昨日の夕暮れ、大学に近い池の周りを鴨の家族が十羽ほど、一日の締め括りのように周回飛行していました。
「今日も楽しかったねぇ!さぁ、これから巣に戻って、みんなで寝んねするんだよ…」_。
青と橙と暗闇が交わる夕映えに舞っている、血の通った羽毛の主たちの優しさと柔らかさ。
それを間近に感じたとき、画廊での時間の刻々が漸く蘇るように思いました。

銀筆による細密な線から浮き上がる色彩の諧調は四大元素、特に空(風)との親和性を持つように思われます。
青と橙の黄昏は光と闇、生と死の交差するつかの間の世界。

私自身もまた物質によって構成されています。
その物質的想像力の促すままに上田さんの、特に鳥の形象化を観じてみると、どうしても天と地上の中間者、あるいは(やや性急だけれども)神意の沈黙せる使者…こういった観念が浮かんできます。
しかし画面の鳥は飛翔してはいない(「みつめるかわりに」「あたためる」)。
暖かい羽毛の奥で何かを待ち、永い時間の中で何かを耐えているよう。
天空、即ち何らかの悦ばしい恩寵を絶たれた現代。
その冷たく硬い地上にあって、鳥たちは間(あわい)を画面に刻みつつ、「安らかな不安の期待(カフカ)」に優しく身を委ねているように思われたことでした。